|
今年は横浜開港150周年だそうだが、先日ふと気がつくと、ホルヘの南米進出20周年でもある。89年6月に、ブラジルで開催されたコパ・アメリカの取材へ出向いたのが初の南米行きであった。若い人にしてみれば、20年前というと子供のころとか生まれる前なので、かなり昔のことのように思えるだろう。しかしホルヘの場合、20年前は30歳近くの成人だったので、それほど昔のこととは感じない。ようするに、歳を取ったということだ。とはいえ、俗に「十年ひと昔」というのだから、20年はふた昔。その間にはさまざまな変化が起こっている。
初の南米行きは、ホルヘにとって初めての海外旅行でもあった。しかも単独行。期待と不安に包まれたその身を運んでくれたバリグ・ブラジル航空も、今は日本便がない。経営難のため多くの路線を廃止。その中に日本-ロサンゼルス間も含まれた。初利用以来、ほとんどの旅行でバリグを使っていたので、マイレージがドンドンたまってプラチナ会員とかになった。しかし日本便はなくなるし、他社と提携していたスターアライアンスからも抜けたので、マイレージの使い道がなく、プラチナカードはただのプラスチックカードになってしまった。
現在、サトウキビからアルコールを作るブラジルのバイオエネルギーが世界的に注目を集めているが、これは20年以上前からあった。ガソリンへの依存を減らすため、アルコールをエネルギーとするアルコール車の普及を奨励していたのだ。サンパウロの空港を出て、最初に気がついたのは、アルコール車による甘い排気ガスのニオイ。平常時はなんてことないが、二日酔いのときはきつい。ニオイをかぐと吐き気がする。二日酔い常習のホルヘは、「とんでもない国へ来てしまった」と思ったものだ。そんなアルコール車も、エンジンがかかりにくい、馬力がないなどの理由で一時姿を消した。しかし、エネルギー危機やエコロジー主義により復活。過去の経験が、世界最先端の技術として生きている。ちなみに今の排気ガスは、二日酔いの人を考慮してか、例の甘いニオイはほとんどしないそうだ。
89年のコパ・アメリカは、ロマーリオ、ベベットのツートップなど強力メンバーを擁したブラジルが優勝した。最強メンバーをそろえたのは自国開催だったためで、このころのブラジルはコパ・アメリカを重視せず、2軍メンバーで参加していた。しかし現在はベストメンバーを編成し、常に優勝を狙っている。この変化が現れたのは、95年のウルグアイ大会からだった。コパ・アメリカに限らず、90年代半ばまでは、南米のサッカー大会はじつにノンビリしていた。優勝カップは決勝戦のピッチに無造作に置かれ、カメラマンは試合前にそれを持って記念撮影ができた。現在は柵で囲まれていて手で触ることができない。選手との接触もオープンだった。ワールドカップ予選であっても、ホーム、アウェーを問わず代表が宿泊しているホテルに堂々と入れた。そこで、ロビーに下りてきた選手をつかまえて取材したものだ。ところが今は、「宿泊客以外ホテルへ立ち入り禁止」とか「選手への取材一切禁止」というのが普通になってしまった。
変わったのはサッカー界だけではない。さまざまなテクノロジーの出現が、取材や通信手段に大きな影響を与えた。ホルヘは写真を撮って原稿を書くが、写真は現地で現像するかフィルムのままDHLかFEDEXで送っていた。発送から到着まで約1週間。当時はおもにポジフィルム(スライドフィルム)で撮影していた。これだと、ナイトゲームの場合は、「増感」という特殊な現像方法が必要になる。ところが、南米ではそれができる店を探すのが難しい。ウルグアイの写真屋では、「増感はできない」というので、「いちばん近くで、できるところはどこだ」と聞いたら、「ブエノスアイレスだ」といわれた。それって、隣の国じゃないか。とにかく、一事が万事こんな感じだった。原稿はFAXで送信していたが、94年くらいまでは、FAXの普及率が低くて苦労した。電話局か五つ星のホテルへ行かなければならなかったのだ。
ところが今は、カメラはデジタルで現像が不要だし、原稿も写真と一緒にメールで送信できる。なんと便利になったことか。しかし便利になったことで、サッカーの写真は供給過剰で価格が暴落。以前の約4分の1になってしまった。まさに、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」である。この20年間で、世界のサッカーレベルは確実に向上したし、コンピューターやデジタル機器の進化も著しい。しかるにホルヘはどうなったか。なーんにも変わらん。白髪が増えて、腹が少し出ただけだ。この進歩のなさには、われながらあきれるばかり。こうなったらダーウィンに対抗して、「ホルヘの非進化論」でも書いてやろうか。 |