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杉並区リーグで約10年ぶりにゴールを決め、マラソン大会で優勝するなど、今回の日本滞在は充実したものとなった。しかし、好事魔多し。本来ならば、楽しい思い出をもって今ごろはアルゼンチンに戻っているはずなのに、まだ日本にいる。ちょっとしたアクシデントで、旅立ちが延期になってしまったのだ。
ある雑誌のゴルフコンペに出た翌日のこと。朝から頭の具合が悪い。頭の中でパキッというような軽い衝撃があり、その後20~30秒、脳が揺れるような感じでクラクラする。そんなことが3回起こった。これは普通じゃない。脳こうそくかクモ膜下出血の前兆ではないだろうか。テレビCMで江守徹が、「早く救急車を呼んだから助かった」みたいなことをいっている。しかし、この3回のパキ&クラクラ以外はなんともない。この状態で救急車を呼ぶのはいかがなものか。午前中に仕上げなければならない原稿もあるし、午後1時に近くの喫茶店で人と会うことにもなっている。そこで、予定通り原稿を書いてから喫茶店に向かい、そのあとで病院へ行くことにした。常識的な判断といえるだろう。
1時から地元のドトールコーヒーで会ったのは、小学校の同級生。われわれの学年は今年50歳の節目を迎えるので、来年の2月あたりにクラス会を開こうか、という相談を行った。しかしそのうちに気持ちが悪くなり、めまいが起こり、腕が震え、冷や汗が出てきた。座っているのが精いっぱいの状態。長椅子に横になろうとしたが、体に力が入らず、そこまで移動できそうにない。「ヤバイ、脳こうそくだ」と思い、すぐに救急車を呼ぶよう頼んだ。同級生が、「横になったほうが楽なら、手伝おうか」といってくれたが、脳の障害なら下手に動かないほうがいいはず。意外にも頭の中は冷静だった。しかし視野がドンドン狭まり、目をつぶったらそのまま死んでしまうような恐怖を覚え、目だけは必死で開けていた。今このコラムを書いているのだから結果的に助かったのだが、あのときは死に直面した気分で、「ああ、死んじゃう死んじゃう」と本気で心配した。死の危機に瀕したホルヘが何を考えていたかというと、アルゼンチンに持っていこうと注文したアダルトDVDが代引きで明日届く。あれはどうなってしまうのだろう、という非常にくだらないことだった。
やがて救急車が到着し、中野の警察病院へ搬送された。ストレッチャーに寝ただけで気分はかなり回復し、救急車の中では、同乗してくれた同級生や救急隊員にアルゼンチンの救急車事情を語れるまでになった。あちらで日系人の車に乗っていたら、その人が、「もし今事故を起こして私が意識不明になったら、救急車を呼んでから、私の財布や時計をすべて預かってくれ。そうしないと、救急隊員に盗まれてしまう」といわれたことがある。そのことを話して、「いやー、日本で倒れて本当によかった」などと軽口をたたいていた。
病院では血液検査、心電図、四肢の反応検査、CTスキャンが行われた。1時間ほど点滴を打ちながら結果を待つ。やがて医師が現れ、「どこも異常がない。単なる疲れでしょう。もう帰っていいですよ」という。しかし点滴はまだ半分残っている。それを告げると、「最後までやりたかったら、それでもいいですよ」と応えた。言葉は丁寧だがなんとなく突き放すような感じで、「この程度で救急車を呼ぶな。とっとと帰れ」といわれているような気がした。脳こうそくだと思い、江守徹のCMに従っただけなのに。それはともかく、どこも異常がないとすれば、なぜあのような症状が起きたのだろう。医師は「疲れでしょう」というが、そんなに疲れていたわけではない。原因がわからないと不安だ。アルゼンチンで再発する可能性もある。そうなったら大変だ。もし、街中を一人で歩いているときに倒れて救急車で運ばれたら、時計と財布がなくなってしまうではないか。というわけで、別の病院でしっかりと検査を受けることにした。
ホルヘがセカンド・オピニオンに選んだのは東邦病院。こうした大病院は検査が予約でいっぱいなので、日本滞在が2週間ほど伸びることになった。検査結果はまだ出ていないが、問診の段階では、「まあ、脳ということはないでしょう」とのこと。これですっかり安心し、酒を飲んだりサッカーをするという普通の生活に戻った。こういった話は酒場で格好の肴(さかな)となり、それぞれが好き勝手に病名を予想してくれる。あるものは「パニック障害だ」といい、またあるものは「メニエール病ではないか」と疑い、そしてまたあるものは「男の更年期障害だ」と決めつける。しかして、その実態は? なんだかホルヘの病名は「多羅尾伴内」みたいになってしまった。若い人には、わからないだろうな。 |