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日本の芸能界では、押尾学とノリピーが薬物使用で逮捕され、大原麗子と山城新伍が亡くなった。ワイドショーは大忙しだろう。またスポーツ界でも、古橋広之進日本水泳連盟会長の訃報があった。彼に「フジヤマのトビウオ」のニックネームがついたのは、1949年の全米選手権でのこと。日本選手が戦後初めて国際舞台に復帰したこの大会で、古橋は自由形の400、800、1500メートルで世界新記録を樹立。その偉業を称えたアメリカの新聞が、「The flying fish of Fujiyama」と記したのだった。
ホルヘはこれらのことを、「祖国へ、熱き心を──東京へオリンピックを呼んだ男」(高杉良著)というノンフィクション小説で読んだ。この小説の主人公フレッド和田は、日系アメリカ人として辛酸をなめながら実業家として成功し、東京オリンピック招致で多大な貢献をした人物。そして古橋らが全米選手権に出場したときは、選手たちを自宅に滞在させ、夫人が作る日本料理でもてなしてベストコンディションで挑めるように協力した。戦後間もない当時、海外遠征は大変なことだった。まず、金がない。日本中の人々が食うや食わずなのだから、競技団体に資金が集まらない。さらに1ドル=360円という固定相場だったので、日本円の価値は低かった。旅費はなんとか捻出しても、滞在費はギリギリ。安ホテルにハンバーガーで過ごすしかない。たまにステーキを食べられる余裕があっても、当時の日本人に洋食は合わなかった。スタミナをつけようと肉を食べたら、下痢をして逆に体調を崩すこともあったらしい。したがって、フレッド和田の献身がなければ、「フジヤマのトビウオ」は誕生しなかったかもしれない。
この古橋の活躍は、アメリカにいる多くの日系人を勇気づけた。彼らは敵性国民として戦争中は収容所に入れられ、戦後も差別が続いていたからだ。日本とアメリカのスポーツ交流が価値あるものだと考えるようになった彼らは、日系人団体で寄付を募り、さまざまな競技団体のアメリカ遠征を支援した。しかしこの運動が拡大したことで、日系人社会に軋轢(あつれき)が生じるようになった。「寄付が半強制的である」という苦情が出たり、残金の扱いで意見が割れたりした。そんな中、当時の大使だか領事だかがこの状況を憂い、「金もないのに、現地の日系人の寄付を頼りにやってくるのは、乞食(こじき)根性丸出しである。洋食では力が出ないなどというが、そういう者は来なければいい」というような趣旨で日本の競技団体を批判した。
そうなのだ、「郷に入っては郷に従え」というように、スポーツ選手は現地のものを食べるべきなのだ。大会出場という短期間の場合はともかく、サッカー留学などでは、食事までを含めたその国の文化に馴染まなければ意味がない。チームメートの家に招待され、そのお母さんの手料理を、「これ、おいしい」といってガツガツ食うことで、そのチームメートから親近感を持たれ、サッカーでもいろいろとアドバイスしてくれるようになる。「ゴハン、キライデス」というアメリカ人より、「ナットウ、ダイスキデース」というアメリカ人を応援したくなるのと同じことだ。
このように、スポーツ選手は現地のものを好き嫌いなく食べなければならないのだが、ホルヘは選手ではない。したがって、日本食ばかり食べている。入手できる食材には限りがあるが、それでもいろいろと工夫している。時として異常に食べたくなるのが、アジの開きだ。もちろん売っていないから、自分でアジを開いて干さなければならない。このために、洗ったセーターを干す道具を、100円ショップで買ってきている。しかし、肝心のアジが手に入らない。魚屋でたまに見かけても、南蛮漬けサイズの小アジしかない。やってやれないことはないが、出来上がりはたぶん、オカズというより酒の肴(さかな)みたいになってしまうだろう。そこで躊躇(ちゅうちょ)していたら、先日良型のサバを発見。サバの開きというのは聞いたことないが、ミリン干しや文化干しがあるのだから大丈夫だろう。その日は、洗濯物干し場が変に暖かく風通しも悪かったのでセーターを干す道具は使わず、扇風機と冷蔵庫で乾燥させた。においが外にもれると、近隣住民の密告により管理人が摘発に乗り込んでくるかもしれない。廊下に消臭スプレーをまき、ドアの下の隙間を目張りする。なにやら、密造工場みたいな雰囲気だ。干物作りで、こんなにスリルを味わえるとは思わなかった。製造過程も面白かったし、味も合格点に仕上がった。これはちょっとしたクセになりそう。今度は、アルゼンチン原産魚のペヘレイで挑戦してみるか。 |