第2回AFCフットサル選手権
地元タイに破れた日本
世界選手権行きを逃す
この大会は、同じ2000年にグアテマラで開催される、第4回世界選手権のアジア予選を兼ねた大会で、今ほどの体制ではないが、日本フットサル連盟は全力を挙げて大会前から準備を進めて臨んだ。とにかく、国内ではほとんど認知されていなかった競技フットサルを広めるためにも、是非とも結果を出したい大会だった。
別格イランと同組に入った日本は、どうしてもイラン以外に全勝しなければならなかった。ウズベキスタン、キルギスタン、マカオにそれぞれ4-2、6-0、12-1で勝利した日本は、イランに2-6で敗れるも、準決勝進出を果たした。ちなみにマカオの監督はサッカー代表と同様に日本人の上田栄治氏が務めていた。大会前の日本代表の合宿に偵察に現れるような一幕もあった。
もう一方のグループでは、前回準優勝の韓国が、カザフスタンには引き分け、ホスト国タイに4-8で完敗を喫し、グループリーグ敗退となっていた。
イラン対タイ、カザフスタン対日本というカードで準決勝が行われた。タイは序盤こそ王者イランに食らいつくが、徐々にイランペースに持ち込まれていった。会場には、多くのイラン人サポーターが押しかけており、すさまじい応援合戦も繰り広げられた。
日本代表は、結果的に準決勝でカザフスタンに、前半を2-1でリードしながら、後半点の取り合いに持ち込まれて6-9で敗戦。初代表だった鈴村拓也は、まだまだフットサルに慣れていなくて、ヴィッセル神戸からやってきた元Jリーガーという形容がぴったりの選手だった。敵との間合いが広くて、カザフスタンの選手にばんばんミドルシュートを許していた。第2PKなどで失点を増やし、後半失速した日本は、なぜかカザフスタンを応援するタイサポーターの前で、悔しい逆転を喫したのだ。
3位決定戦は、勝てば世界行きという大一番になったが、相手が悪かった。開催国のタイだった。会場には、大きなタイ国旗を抱えた一人応援団長が「タイラーーーンド!!」と叫ぶと、会場も「タイラーーーーンド!!」と応える究極のアウェイ状態。私も思わず一緒にタイを応援しそうになるくらいの盛り上がりだった。
この試合も、序盤は日本リードも、タイはキーパーからの鋭いスローイングから繰り出す速攻から、サッカーでも名を馳せていたチャイマンが個人で日本守備陣を粉砕し逆転。日本はアジア予選を勝ち抜くことができなかった。
冒頭で、全力を挙げて準備を進めたと書いたが、このとき集められた代表候補の面子が興味深い。
日産の冠がはずれた第5回全日本選手権で活躍したメンバーが中心になっているが、マリーニョ監督はこのときも関東大会の決勝で敗退したCASCAVELから実に4名の選手を呼んでいる。その中には甲斐修侍の名もあった。結果的に甲斐を除く市原誉昭、相根澄、前田喜史の3名が代表入りし、中心選手として活躍した。甲斐が最も代表に近づいたときだったかもしれない。
最終的な選考からは漏れたが、そのCASCAVELを関東の決勝で破ったWinningDogのエース木暮賢一郎も候補合宿に呼ばれていた。全国大会では、体調不良で活躍できずに終わったが、底知れぬ体力と決定力は徐々に注目を集め始めていた。
チームは、全国2連覇を達成したFIRE FOXのエース上村信之介が第1回大会から引き続きチームの中心となり、藤井健太と市原が絶妙にチームのバランスを取るという形だった。だが、第1回大会同様、マリーニョ監督が考えるフットサルが何なのかを、チームに浸透させる時間も、吸収する選手側のキャパシティも当時はなかった。
「サッカー選手対策」ということで、大会前の合宿では、国士舘大学サッカー部との練習試合をこなしていた。といっても相手は3軍。その試合を見ていた1軍選手が「これが代表? ちょっと練習すれば勝てそうじゃん」といっていたのをよく覚えている。当時、国士舘大学といえばJFLと大学リーグの両方を戦うスーパーチームだったので、そう思うのも仕方なかったのかもしれないが……。
この2000年の敗北で、日本のフットサル関係者は嫌というほど、フットサルの本質とは何か、について考えさせられた。局面を打開する戦術も、トリッキーなドリブルも必要な条件ではある。しかし、20分ハーフのプレイングタイムで行う競技であるということ。タイムアウトを前後半1回ずつ取れる。つまり、ベンチが試合の流れにある程度関与できるということ。そして何より、「負けないフットサルとは何か」ということを、頭ではなく、体で実体験として蓄積していく必要性を痛感せざるを得なかった。
当時、国内のフットサルは、技術的なレベルは高くても、試合全般を通して質の高いフットサルを展開するチームはほとんどなかった。荒れてしまう試合も多かった。眞境名オスカー監督率いるFIRE FOXは、そうした試合の中での戦い方のマネジメントができている唯一のチームといえたが、要所を日系ブラジル人が占めるこのチームと、日本代表を一緒にすることはできなかった。
バンコクでの大会中、選手の疲労は側から見ても明らかだった。国内から続く長い合宿生活。そういった経験の少ない当時のフットサル選手は、フィジカル的にもメンタル的にも厳しい試合を勝ち抜く状態を維持できていないようだった。それは、チームスタッフも同様で、よくいわれる「経験」というのは、こういうところにも現れるのだ、と強く感じた。
ただ、あの当時の代表選手が、今でも中心となって代表で活躍する姿を見られるのは、非常にうれしく思っている。 |