第1回AFCフットサル選手権
フットサル選手たちが
初めてアジアを経験
第1回目のAFCフットサル選手権(アジア選手権)は、1999年3月上旬にマレーシアのクアルンプールのネガラスタジアムという会場で行われた。99年の1月末には第4回全日本選手権が「NISSAN CUP」として開催され、FIRE FOX IPANEMA'Sが鮮烈な全国デビューをした年だ。ちなみに、甲斐修侍(現ペスカドーラ町田)率いるエスポルチ藤沢は、関東大会で府中水元クラブに敗れ、その府中水元も決勝で筑波大学に敗れていた。
当時の日本代表のマリーニョ監督は、その全日本選手権の関東大会で活躍した選手を、意外にも多く選出した。NISSAN CUPで活躍したのは、優勝したFIRE FOXの上村信之介、ASPAの藤井健太、原田健司、GREAT HOCHI POCHIの安藤信仁くらいで、エスポルチ藤沢からGK金沢信二、市原誉昭、相根澄、府中水元から中村俊仁(中村恭平監督の実弟)などが選ばれていた。ちなみに原田は、先日の地域チャンピオンズリーグで準優勝した現在のシュライカー大阪の原田その人。安藤は現在バルドラール浦安に所属している。
上村が全日本選手権でも輝きを放ち、チームも彼中心で構成されるかと思われたが、マリーニョ監督はそこにラモス瑠偉を呼んだ。それは、当初このクアラルンプール大会は、グアテマラで翌年開催される第4回世界選手権のアジア予選を兼ねる予定だったからだ。チームは一気にラモスのチームになった。もちろんキャプテンもラモスだった。こうして日本は世界への切符を目指して意気込んだが、参加チーム数の関係で、AFCは突如予選を兼ねないことに変更してしまったのである。後で見てみると、翌年のバンコク大会も同じチーム数で大会をやっているので、うーん……という感じなのだが。
それはそれとして、ラモスはチームを引っ張ったが、プロ選手であるラモスと、まだほとんど競技として成立していなかったフットサルの選手では、意識もスキルも差がありすぎた。緒戦の対戦相手であるホスト国マレーシアは、プロサッカーリーグの2軍レベルの選手が、大会前に10日間の合宿をして大会に臨んできていた。日本は一時は5-3でリードしたものの、パワーで押し込まれて終了間際に2失点。勝点3をものにできなかった。藤井3得点、上村1得点、中村1得点という内容だった。上村、藤井、相根、中村は時折すばらしいコンビネーションを見せたが、チームとしての戦略も戦術も見せられない日本は緒戦からつまづいた。
第2戦は、今はもうAFCにはいないカザフスタンとの対戦だった。緒戦で同じ中央アジア勢のウズベキスタンを3-2の接戦の末破っているため、日本はどうしても負けられない。この試合で、日本は素晴らしいパフォーマンスを見せる。徐々に息の合ってきたラモスとフットサル選手たちが遂に爆発。藤井が先制すると、安藤がラモスからの浮き球を胸トラップボレーで叩き込む。PKで1点は献上するも、後方から押し上げたラモスが上村→ラモス→相根→ラモスとパスを回してシュートして3-1とする。その後相根も1点追加して、カザフを撃破した。
グループリーグ最後は、今もアジアトップレベルを維持するウズベキスタンとの対戦。この試合は、ラモスというより、後に日本フットサルを牽引する藤井、市原、相根、上村、中村の活躍が光った。特に市原は、「混成チーム」の色濃い日本代表にあって、その溝をうまく埋め、潤滑油としてうまく機能していた。既にトップ選手といわれていた上村は、他の選手とのコンビに苦しんだが、市原が入ることでゲームをうまく運ぶことができた。3-2とリードした後に3-5と逆転されたこのシーソーゲームは、その後上村、市原が得点を挙げて、なんとか同点に持ち込み決勝トーナメントに進出した。
準決勝で対戦したのはイラン。7連覇の始まりの大会で、日本は2-5で敗れることになる。2点はいずれも中村俊仁の第2PKだった。「シティボーイ対ソルジャー」と地元新聞が書いたように、屈強ですでに百戦錬磨だったイランに対し、日本は流れの中から点を決めることができなかった。
日本は3位決定戦で、グループリーグで勝利したカザフスタンにPK戦の末破れ、イランは決勝で韓国に9-1で圧勝し、アジア王者となった。ちなみに、この大会でスコアで最もイランに近づいたのは、既に日本だった。国内に何のベースも、経験もない選手たちはよく戦ったというのが、今思うところだ。
当時の日本は、年間を通じた高いレベルのリーグ戦が全くなかった。日本代表メンバーも、ほとんどがサッカーもやっていて、まさかその後にフットサルの日本リーグが始まるとは夢にも思っていない。会場にはウルトラスの応援団も現れ、選手宿舎で選手を激励(お説教)した。ラモスの参加で、この大会のことはテレビなどのメディアでも取り上げられた。しかし、大会前に合宿して本番に臨む体制は、高校サッカーでいうところの「日本選抜」の域を出ず、日本代表の戦いぶりにいろいろな論評を加えることにあまり意味がない時代だった。 |