祝 流通経済大学付属柏高 高校選手権優勝! [ページ2/4] |
『市原緑、習志野、流経。それぞれで別の指導をしてきた』
ストライカー
これまでの経歴を教えてください。出身は千葉県ですか?
本田
私は静岡の出身で、静岡東という高校でサッカーを始めた。そこで出会った監督の影響が強くて、順天堂大学へ進学してサッカーを続けた。盛岡商の齋藤(重信監督)は同期です。
順天が千葉県にある関係で卒業してからは市原市の教育委員会に就職。それからしばらくして、サッカー部の監督をやりたくて市原緑に赴任した。
就任当初は苦労しましたよ(笑)。サッカー部にほとんど選手がいない状況で、野球部やバスケットボール部からかき集めてなんとか試合に出ていた。
ストライカー
当時はどんな監督だったんですか?
本田
とにかくスパルタで選手をしごいていた。そういうもんだと思っていた。
そのかいあってか(笑)、4年目に関東大会に出るまでになったけど、全然相手にされなかった。浦和南(埼玉)に、0-4くらいでやられた。全国大会は、10年間で総体の1度きり。それから30年たって、流経のオール2年生のチームで関東大会に勝ったんだから、変わるものだよね。
ストライカー
宮澤ミッシェルさんも市原緑で教えていました。
本田
彼は中学時代から注目されていた。他の高校に行くはずだったんだけど、試験に落ちちゃってね。偶然知り合いだった彼のお父さんに頼んで入学してもらった。緑では中心になってよくやってくれたよ。
ストライカー
習志野に移ったのは?
本田
習志野でずっと指導していたに西堂(就)監督(現柏日体高コーチ)が転勤されて、指導者のつなぎがうまくいかず、名門校が急激に弱くなっていた。西堂先生の退任後、習志野の校長に呼ばれて直接頼まれた。市原緑にいい選手が残っていたから、後ろ髪を引かれる思いで緑を離れたのを覚えてますよ。
ストライカー
西堂先生には古沼先生も影響を受けたと聞いています。どんな指導者だったんでしょうか?
本田
国体の千葉選抜で一緒にやらせてもらったのが最初だった。イメージとしては、私の“師匠”。古沼先生と同じでサッカーをプレーした経験はほとんどないけど、巧みな話術と我々とは違う視点で選手をその気にさせるのがうまい。
勝つことにとにかく貪欲で、どうすれば勝てるか、そればかり考えているような人。
ストライカー
習志野ではどんな指導を?
本田
当時は静岡学園の井田(勝道)さんの影響をものすごく受けていたので、静学サッカーを目指していた。ボールをいじくり回して、相手を翻弄することに喜びを見い出すような……。いい選手も多かったけど、あまり勝てなかった。
ストライカー
そこからまた転勤されたわけですが。
本田
習志野という学校は市立で、県立高じゃないから異動の心配がなかった。私自身、習志野で勤め上げるつもりでいた。でも、あのころに制度が変わって、県教委の2000人の異動方針が出され、市立といえども転勤することになった。しかも私の場合、習志野で長い間勤めていたので、翌年にも転勤があるといわれた。そこで、習志野を離れることに決めたんです。
辞めようと決めたのが12月で、次になにをするか、何も決めていなかったんだけど、国士舘大の大沢(英雄元部長)先生の紹介で、流通経済大から「大学に続いて高校でもサッカーを強化していきたいから」と誘われた。
ストライカー
流経大付柏高では、就任当初から順調に強化できたんですか。
本田
いやいや。“招かれざる客”扱い(笑)。校長だけが味方してくれた。
当時学校はラグビーに力を入れていたけどサッカーはさっぱりで部員は7、8人しかいなかった。グラウンドもラグビーのポールの後ろ。いつも柏の葉公園の周辺で練習していました。
習志野から一緒に転向してきた選手がいたから何とかなったけど。
ストライカー
先生を慕ってきた選手がいたわけですね。
本田
私自身が勧誘した選手ばかりだったので。一緒に行きたいという1年生の希望者15人でした。その選手を受け入れるために、退職金でマンションを買ったりしてね(笑)。高体連の場合、“転籍した選手は6カ月の出場停止”というルールがあるので、2年生(新3年生)は連れてこなかった。
流経で最初に出場した大会では、(残った選手たちの)習志野に負けて県大会にも進めなかった。
ストライカー
その後は順調に運んでいるように見えます。
本田
2年目で関東大会、3年目で総体と選手権に出場。全国ではまだ1勝もあげていませんが。
ストライカー
古沼先生とはいつ頃から懇意にされているのですか。
本田
初めにお会いしたのは市原緑の頃でした。
スーパーリーグを立ち上げた頃は、かなり親しくさせていただきました。
先生からいろいろと話を聞くうちになるほどと思うことが多くて、素晴らしい指導者だと思うようになった。先生が一度帝京の監督を退いた(1993年に総監督に就任し現場から離れた)ときにも、私は現場復帰を盛んに勧めたんです。
ストライカー
今日のように臨時コーチをお願いするようになったのは?
本田
先生が帝京を退職された頃から。頼りない私を心配してくれたんでしょう。以来、時間があるときに来ていただいています。
すごいのは、先生に「笛吹いてください」とお願いすると、ずっと立ったまま指示している。私のほうが若いのに、私だと座って指示しちゃう。今日は「腰が痛い」といってさっき少し座ってたけど(笑)。
勝つことに今でも執念を持っているのもすごいこと。選手がタラタラやってると本気で怒る。
日本のサッカー界は、先生のような人をもっと生かしたほうがいい。全国で9回も優勝した監督に何もさせないなんてもったいない。
アルゼンチンに行ったとき、ボカ・ジュニアーズでマラドーナを教えたという人に会ったけど、80才になってもグラウンドに立って笛を吹いてた。15年くらい前のことなので、今はわからないけど(笑)。
ある程度のレベルに達したチームに先生を任せたらすごいと思う。笛を吹くと今でも血が騒ようで、情熱は全然衰えていない。
過去の試合の勝ち負け、スコア、シュート場面をすべて覚えているのもすごい。
ストライカー
指導者が日によってかわることで、選手に戸惑いのようなものはないですか?
本田
最初はあった。先生も遠慮してたようだし。
実は、笛を吹いてもらうようになったのはこのチームが初めて。去年までも先生に見てもらうことはあったけど、アドバイスををもらう程度で、笛を吹くまではしてなかった。
今年のチームは力があるんだけど、先生に来てもらうまでは勝てそうで勝てなかった。プリンスリーグでも、2節くらいまで勝てなかったのが、先生に見てもらうようになって変わった。来てもらううちに勝てるようになっていった。
年齢でいえば、先生にとって選手は孫くらい離れている。それが逆に選手をリラックスさせる要因になっている。苦しい練習をしていても、結構リラックスしてやってますよ。
ストライカー
目に見えて変わったことはありますか?
本田
スピードでしょうね。
子どもたちって、「ボールをこんなふうに扱える」というのを競うところがある。それをテクニックだと思っている。
でも先生にいわせると、それはサッカーじゃない。「そんなことしたけりゃ公園行って1人でやれ」と怒られますよ。
それが(今の日本サッカー)そのままだと思う。
それから、例えばゴール前でセンターフォワードがチャンスになっても、打ちにくい状況であれば、いい状況の選手に打たせる。
私自身も以前はそういう目で見れなかった。強引に行くことをよしとしていた。
ストライカー
最近はどのくらいのペースで来てもらっているんですか。
本田
先生も忙しいのでなかなか来れなかったけど、最近は週に3回くらい来てくれることもある。
私が学校の仕事で忙しいので本当に助かってる。
ストライカー
古沼先生が来れないときはどうしているんですか。
本田
先生のアドバイスをチョイスしながらやらせている。次第に無駄のない古沼スタイルに変わりつつあります。
ストライカー
どんな内容ですか。
本田
多いのはシュート練習。「なんで帝京の選手はみんなシュートがうまいんだろう」って以前はよく思ったものだけど、その理由がわかった。これだけやらせてるんだから。
とにかくシュートには時間をかける。シュート練習をしない日はない。
我々は、ほかのことに目を奪われがちで、結構シュート練習をしないもの。
「木を見て森を見ず」の言葉じゃないけど、局面やボールをこねるほうにばかり一生懸命になって、シュートには時間をかけない傾向がある。
ストライカー
今年のチームはいかがでしょうか。
本田
いいところまで行けるとは思う。古沼先生にそういうと、そういう考えが「甘い」といわれる。
でも、先生に見てもらうようになってよくなったのは間違いない。
>ページ[3]へ続く
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